野生のペタシ (Le pédant sauvage)

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そこで終わりかよ

北方版三国志、終了。「〈13の巻〉極北の星」で最後だ。

三国志〈13の巻〉極北の星 (ハルキ文庫―時代小説文庫)

三国志〈13の巻〉極北の星 (ハルキ文庫―時代小説文庫)


雍州をめぐる魏と蜀の戦いは、武力というより、司馬懿vs諸葛亮の頭脳戦になっている。三十五万の魏軍を、十四万の蜀軍が翻弄する。蜀が有利に押している、と思ったら最後は諸葛亮の過労死で撤退、なんて。
例によって山川出版社の「詳説 世界史(改訂版)」(1986年3月5日発行)より

後漢末におこった農民の反乱で最大のものは、華北で張角がおこした黄巾の乱であった(184年)。乱はたちまちひろがり、各地に群雄がおこって、後漢は滅んだ(220年)。
この混乱のなかから、華北を根拠地として後漢にかわった魏(曹操曹丕)、江南の呉(孫権)、四川の蜀(劉備)がおこり、中国を3分して争う三国時代となった。やがて魏は蜀を滅ぼしたが、まもなく魏の将軍司馬炎(武帝)が国をうばい(265年)、晉(西晉)を建てた。その後、晉は呉も滅ぼして、中国を統一した(280年)。

司馬炎って、司馬懿の孫よね。だから物語としてはまだこれから、のはずなのだけど、諸葛亮が死んだところで、北方版三国志は終わりになっている。吉川版も同様らしい。ここからはあんまり面白い話はないのかもしれんな。
さて後半の主役となった諸葛亮、稀代の戦略家として後世に名を残し、三国志の中でも非常に人気の高い登場人物なわけだが。結局は最後の最後まで「あと一歩」というところで大勝利を逃している。あまりに卓抜な戦略というのも、それを実行するのは普通の人間なのであるから、精緻に過ぎると必ずどこかで綻びが出る、ということなのだろうか。
なんだかんだ言っても、「漢王室復興」という大義を掲げて天下統一を目指した劉備も、結局は志半ばにして病死してしまっているし、その志に共鳴した義兄弟であるところの関羽張飛も長年の苦節を共にし、それが報われることも無いままに戦死したり暗殺されたり。なんだか薄汚いことばっかりやってる孫権の方がうまいことやってたり。そういう意味では、どうもこの三国志ていう壮大な物語は、最後の最後であまりカタルシスが無いように思う。
ところで「三国志演義」であるとか吉川版においては、皇帝位を簒奪する悪者・曹操孟徳に、漢王室復興のために立ち向かう正義の味方にして徳の将軍・劉備玄徳、というような枠組みにおいて物語が組み立てられているのではないか(知らんけど)。
北方版では、もう少し深みがあるというか、曹操劉備のそれぞれの立場を、結局は「帝の血と国家」というものに対するイデオロギーの違いで説明している。どちらが正しい、とか悪い、とかいう判断は留保されており、各自の言い分がそれぞれの視点で語られ、相対化されている。国力にダメージを与えてまで天下統一とか無理せずに、じっくり足下を固めようぜ、でも邪魔するなよ、という孫権専守防衛の考え方も、はっきり言ってかなり真っ当だ。ヘタレの張衛にだって、弁明の余地は残されてるし、あまり救いようのなさそうな董卓袁術にだって「盗人にも一分の利」ってやつだ。さらには、馬超や爰京といった人物により、乱世の梟雄たちから一歩引いた視点で、「覇業」を客体化している。馬超は「元」梟雄なんだけど。プロ野球の解説者みたいなもんか。まあそんなあたりが、北方版の味わい深いところなんじゃないかなと思っている。