野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

臥龍ハンパないって

宮城谷版『三国志』もいよいよ第6巻。全十二巻の折り返しだ。やっとここまで来たか、という気がする一方で、もうそんなとこまで来たのか、とも感じる。

三国志〈第6巻〉 (文春文庫)

三国志〈第6巻〉 (文春文庫)

さて第6巻でついに、「三顧の礼」だ。ある日どういう風の吹き回しか劉備は、水鏡先生こと司馬徽に会いに行く。そこで、この近所には伏龍と鳳雛がいるんだぜ、と教えてもらう。しかし、せっかく教えてもらったのに劉備は、伏龍も鳳雛も探しに行こうとしない。何ぼーっとしとんねん、とイラつくが、そこに徐庶劉備組に入ろうとやってくる。この徐庶が、諸葛亮ヤバいっすよ臥龍っすよ、一度会ってみませんか、と劉備に勧めるわけだ。ここでもまだ劉備はあまり気が進まないようすだが、うーんまあ徐庶がそこまで言うんなら、てな感じでやっと重い腰をあげた。ちなみに、伏龍ではなく臥龍じゃないのか、と思うがどうやら水鏡先生が呼んだのは伏龍で、臥龍と言ったのはこの徐庶であったらしい。
一方で諸葛亮劉備の噂は聞いていたが、諸葛亮自身の見立てでは

劉備がどのように生きてきたのかを、諸葛亮は知っている。妻子にも従者にも酷薄な人で、学問を嫌ったせいで浅学であり、知者や賢人を敬ったことがない。(p.119)

とか

群雄のなかで劉備ほど無能な人はいなかったのに、豪傑が淘汰されてきた現在、何もしない劉備に輿望がある。(p.120)

てな感じで、まあひとことで言えば「あのおっさんはダメだわ」ぐらいに思っていたようだ。だから劉備が会いにきても逃げ回っていた。ところが星占いでもう劉表の先が長くないことがわかり、このまま行けば遠からず曹操の天下になる、でも支えるのはイヤだ、となると劉備曹操に対抗させねばならない。でもあのボンクラなおっさんではちょっと無理。うーむしょうがないこの俺様が何とかしてやるか、と決心してやっと三度めの訪問にしてついに劉備と会った、ということであるらしい。
ところがやっとのことで実際に相見えたとたんに、劉備諸葛亮を「偉材だ」と直感し、諸葛亮劉備を視てその異様に大きな耳と異常に長い手に驚いた、のではなく「その声と目容から至上の淳美を感じ」、「人為を超越してゆくことは、こういう人しかできない、とたちまち確信した」のだそうだ。事ここに至って諸葛亮の感想なんてもう何を言っているのかよくわからんがとにかく、諸葛亮劉備組に取り込まれた、というわけだ。
そしてここから調子に乗る諸葛亮孔明。ああ言えば孔明諸葛亮の口車に乗せられた孫権は、ついに曹操と対決することになる。そう、「赤壁の戦い」だ。下手すると映画が一本作れてしまう、いわば三国志のハイライトをこの本では、60ページほどでちゃちゃっとやっつける。ああなんて潔いんだろう。
あまりにも有名すぎるこの「赤壁の戦い」、80万とも100万とも言われる(さすがに100万は盛りすぎだろ)曹操の軍隊を、3万の寡兵で撃破した、とされ後世に語り継がれるわけだが、この手の話の常としていろいろ尾鰭がついてくる。その中の最たるものが、諸葛亮が何やら妖術紛いの技を使って風向きを変え、周瑜率いる呉の水軍による火計を成功せしめた。燃え上がる曹操軍の船団の炎が岸壁を真っ赤に照らし、赤壁と呼ばれるようになった… てな話だ。もちろん火計(と黄蓋による内通の偽装)の成功が周瑜軍の勝因だが、諸葛亮が風向きを変えた、なんてアホな話は実際にはない。もっというと、この戦いは劉備周瑜の連合軍、てな話ですらなく

後世の人々は、この水戦に劉備諸葛亮がまったくかかわっていないことにいらだち、呉軍のために諸葛亮が壇を築いて東南の風を吹かせるという道教的風景を挿入したが、作り話である。周瑜は艦からはなれたことはなく、諸葛亮を艦に招いたこともない。(p.280)

と、ばっさり。じゃこの赤壁の戦いの時に劉備は何をやってたかというと、陸上から様子を見てた、という。しかも、敗走する曹操を本気で追いかければ討つこともできたはずなのに、何となくグズグズして取り逃がす。まあヒドい。そりゃ周瑜でなくても怒るでしかし。
その後で江陵を攻める時も、最初の方だけちらっと参加しといて、後は「自分らちょっと荊州の南の方の連中と話してくるッス!」とかなんとか言ってバックれたかと思ったら、いつのまにかその辺を取り込んでしまってるという、火事場泥棒みたいなことをしれっとやってのけるわけだ。いやー諸葛亮ってよくそんな陰湿な策を思いつくもんだね。
佳人薄命なんてこと言いますが、「諸葛亮てめえ絶対ブッ殺す!」とブチ切れる周瑜は結局病死してしまう。そしていよいよデカい顔する劉備玄徳。さあどうする孫権