野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

スカしてんじゃねえぞリック

ミシマ社で出してる本はどれも面白いなー、と思いながら『あわいの力』を読む。

あわいの力 「心の時代」の次を生きる (シリーズ 22世紀を生きる)

あわいの力 「心の時代」の次を生きる (シリーズ 22世紀を生きる)

  • 作者:安田登
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2013/12/26
  • メディア: 単行本
著者の安田登さんは能楽師、というのは知っていたけど、こんな経歴があって、おまけに甲骨文字やらシュメール語やらの話まで出てくるとは思わなかった。
古代の人類には「心」がなかった。人類が「心」を持つようになったのはだいたい3000年ほど前、とのことですが。

未来という存在しない時間を作り出しているのは「心」です。現代は、その「心」があまりにも大きくなりすぎて、身体からいまにもはみ出さんばかりです。
二十一世紀の今日がかくも生きづらいのは、そこに原因があるのではないか
(p.106)

つまり「心」というのはざっくりいうと想像力とか抽象的な思考みたいなもんか。
目に見える今、ここ、だけではなく未来について考え、過去のことを記憶する。
それがあったからこそ人類は発展し複雑な社会システムを作り出してきた。
ってこれ、ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』で書いていた「認知革命」と同じ話だったりする?しかしあの本によれば、共同体の中で虚構を共有するようになった「認知革命」はだいたい7万〜3万年前のどこか、とのこと。ちょっと違う話なのだろうか。
いずれにせよ、虚構を信じ、それを共有することなしには存在し得なかったはずの宗教も貨幣も株式会社も国家も、この3000年とか4000年ぐらいのことなわけで、つまりだいたい同じ話。というか7万年前に得た、虚構を作り出し共有するという能力を活用した結果が3000年前ぐらいから形になってきた、ということではなかろうか。
しかしながらその「心」を持つことにより我々は過去を悔いて思い悩み、将来について不安を抱き、目に見えない脅威について心配する。これが甚だしくなれば精神疾患になったり、ついには自殺までしてしまったりする。
「昨夜はどこにいたの?」
「そんな昔のこと、覚えてないね」
「今夜逢える?」
「そんな先のことは分からない」
なんて言い切れれば、気楽に生きていけるわけだが、なかなかそういうわけにもいかず。
そろそろ「心」に代わる何かが出てくる頃ではないか、てことだけど、いや具体的に何よそれ、と問うてもわからんのよね。我々の思考はその「心」によって規定というか制約されてしまっているから。
人類の歴史においてはある時代ごとに知の枠組み=エピステーメーというものがあって、我々の思考はその中に閉じ込められている、てなことを『言葉と物』の中でフーコーは言っているらしい。
「心」に代わるものはいったい何か、と考えるのはまさに、あえてエピステーメーの外側で思考することであり、そんなの生身の人間にできることではないような気もする。そんなんわかるやつおらんやろ、てことよね。
まあそんなわけで、面白い本でした。