野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

そろそろポイントオブノーリターン

「人新世」と書いて「ひとしんせい」と読む。
え、そうなん?と思ったが別に「じんしんせい」でも良いらしい。どないやねん。
地質時代区分のうち最も新しい(つまり現代を含む)のが「完新生」である。地質学的には同じ完新生であっても、ある時点から人類が地質や生態系などの地球環境に与える影響を無視できなくなったあたりを始まりとして、「人新世」と呼ぶのだそうだ。
どうも最近やたらと「**の資本論」を読んでいるような気がするが、それならやはり『人新世の「資本論」』は読んでおかねばなるまい。

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

気候危機は、そろそろ取り返しのつかないところまで来ている。
20年前だったら、うんまあそういう可能性もあるかもね、ぐらいな感じだったが、今なら肌感覚として、確かにその通りだな、と理解できる。
人新世における人類の営みのアウトカムが気候危機であり、その先にあるのはカタストロフィである。人類の営み、ことに経済活動は資本主義によりドライブされている。
自身を増殖させ続けるのが資本というものの本質であり、資本主義は、終わりのない成長を前提としている。そして、資本の増殖は「外部」からの収奪により成り立っており、常に「外部」を必要とする。
「外部」とは、帝国の植民地であったり、開発途上国であったり。最近ではリアル空間を食い尽くしてサイバー金融空間に手を広げてみたり。
ということは「外部」が無くなってしまえばそこで終わりじゃないか、と思うのが普通だ。
そう、そろそろ終わりが近づいているということだ。
資本が外部から収奪する時にはまた、それに伴って発生する数々の不都合も外部に押しつけてきた。数々の不都合とはつまり、環境汚染、種の絶滅、健康被害、といった諸々だ。
今までは目を背けていれば視界に入らず、意識しないようにできた。あるいは、意識している場合にも、カーボンオフセットとかフェアトレードという免罪符を購入し、やましい気持ちをさほど感じないで済むようになっていた。
が、そろそろそれも限界に近づいており、外部に押し付けていた不都合は、我々自身にとって様々な形での災厄として降りかかりつつある。
テクノロジーの発展が種々の問題をいずれ解決してくれるだろう、というのはあまりにも楽観的すぎる見通しである、と作者は書いている。そういう予測をたてる学者たちの説をすべて粉砕している。
結局は、資本主義にブレーキをかけるしかない、ということだ。そして、資本主義の前提となっている「成長」に対する信仰をやめよう、と。
つまり「脱成長」だ。
しかしこの「脱成長」は「緊縮」と一緒くたにされやすいし、文明を否定して石器時代に戻れというのか、とか、お前はアカか、みたいな極論になりがちなようで。
簡単な話ではないですけどね。どなた様も一度、じっくりこの本を読んで考えてみてほしいな。