野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

またまたブルシット・ジョブ

どうしてこんなにブルシット・ジョブが気になるのだろう、と思いつつ今度は『ブルシット・ジョブと現代思想』を読んでみた。だって大澤真幸せんせが書いてるんだもの。

まずは千葉雅也氏との対談が、ほとんど何を言ってるのか理解できなくて驚いた。そもそもこのパート、ブルシット・ジョブそのものよりも千葉氏の著作『勉強の哲学』の解説じゃなかろうか。ところどころ強引にブルシット・ジョブと関連づけている部分はあるけど。
この対談で絶望的な気分になっていたが、その後は難しいなりにも多少は理解できなくもない内容になっていて安心した。
もちろんこの本の主題はその部分にある。ブルシット・ジョブそのものについての説明は、グレーバーの『ブルシット・ジョブ』の要約であるから今さら、という感じであるが、まあグレーバーではなくこの本から読む人だっているから致し方なかろう。
しかしよく読むと、グレーバー自身による論考でちょっと雑な部分、あるいは納得しにくい部分もあったのを、本書では批判的に補足・強化してくれている。なるほど確かに、グレーバーのいう通りだとスティーブ・ジョブスだって言ってみれば「脅し屋」(Goons)で、その仕事は典型的なブルシット・ジョブだ、てなことになってしまうわけだが、さすがにそれはちょっと違うよな、と。
なるほどね、などとちょっと油断していると、行動経済学やらマルクス資本論やらシーニュやらまで出てきておっとっと、という感じになるのだが、そこを何とか踏ん張って持ち堪えつつ読むと、つまりはブルシット・ジョブというのは資本主義の行き着く先にあるものだ、ということのようで。現代の資本主義においては、ほとんどすべての仕事が、見ようによってはブルシット・ジョブであり、そうでない仕事との間には明確な境界線など無い。「資本主義化というものが、ただそれだけで、その内部の仕事の意味をそぎおとし、仕事を全体としてブルシット化する作用をもつ」と言われると、あるいはそうかもしれない、と思う。
しかしそうなると、「ブルシット・ジョブの克服はすなわち資本主義を乗り越えること」である。資本主義社会を生きる我々にそんなことは可能なのだろうか。
できなくはない、と著者は言う。
それはすなわち「自分の仕事を要請した本来の<問い>を回復すること、原初の<問い>を掘り起こすこと」であり「<問い>を見出せば仕事の意味づけが変わる」と。どうしても原初の<問い>を見出すことができなければ、それは結局は「クソどうでもいい仕事」、ブルシット・ジョブであり、やめてしまえば良いのだ。
うん、ずいぶん難しいが、何となくわかる気がする。
というわけでなかなか面白い本だった。