野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

目ぇ突いたろか

オビに「あなたはどっちが好きだった?」と書かれている。うーん、最初はどっちもあんまりだったけど、「ミ・アモーレ」あたりからは断然明菜だな。あ、幻冬社新書の「松田聖子中森明菜」のことね。

松田聖子と中森明菜 (幻冬舎新書)

松田聖子と中森明菜 (幻冬舎新書)


またアホなことというか、どうでもええことをネタにして本を書く奴がおるなあ、と思ったものだが、なかなかどうして、読み応えのある面白い本でっせ。
80年代の日本の歌謡曲シーンを席巻した二人のアイドル、松田聖子中森明菜という「現象」について、それが何を意味していたのか、を読み解く本だ。
あの時代をリアルタイムに体験した世代にとっては、懐かしいことこの上ない。しかしそういう単なるノスタルジーだけでなく、それは一体どういう意味があるのかということを考察するわけだ。
松田聖子構造主義中森明菜実存主義、そして小泉今日子ポストモダン、といわれるとさすがに何のこっちゃと思うけど。
それにしても、タイトルこそ「松田聖子中森明菜」と並立しているものの、どうも記述が松田聖子に偏重しすぎなように感じるのだがいかがか。いや、単に松田聖子マンセー本になっているという意味ではない。ただ、筆者の深い考察は基本的に松田聖子に対してなされたものであり、中森明菜松田聖子を理解するために対置された、言ってみれば補助線のような位置づけになっているように感じられて仕方が無い。気のせいだろうか?
それにしても、「アホと天才は紙一重」てなことを世間では言うが、それは違うのだ。アホと天才は直交する特性であり、すなわちそれは同一人物において共存し得るということだ。松田聖子は天才である、とこの本は言う。確かにそうだ。凡庸な歌手ならばいったいどう歌えば良いのかと頭を抱えてしまう、まともに考えればまったく意味不明で内容の無い松本隆の歌詞を、あっさりと、何も考えずに歌いこなしてしまうのだから。
この本は色々な読み方ができると思うが、その主旨のある部分は第七章の最後に書かれているこの文章に集約されるだろう。

松田聖子が無自覚に、松本隆が確信犯的に破壊した、日本の旧来の男女関係、個人と社会との関係は、修復されることはなかった。
歌は、ますます意味がなくなっていき、言葉遊びですらなく、ただメロディーとリズムに乗せられるだけになっていった。歌詞カードなしでは日本語なのか英語なのかも分からなくなっていった。