谷崎潤一郎の「陰翳礼讃 (中公文庫)」という本を読んだ。いやー、これは面白い。
- 作者: 谷崎潤一郎
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1995/09/18
- メディア: 文庫
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これが書かれたのは昭和初期で、その頃に電燈が使われ始めたらしい。谷崎センセは、それが「明るすぎてイカン」と嘆いておられるのだ。食物、食器、衣類、化粧などの色は、石油ランプや行灯ぐらいの明るさで、もっとも美しく見えるようになっているということだ。なるほど、そういわれてみたらそうかもしれない。とてつもなく明るく昼光に近い照明で、ありとあらゆるところが煌々と照らされている今の時代をみたら、腰を抜かしてしまうかもしれんな。
うむう、と思ったのは、
美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。
という一文だ。なるほどねえ。名言だと思う。
「懶惰(らんだ)の説」という章においては、東洋人は、西洋人に比べると怠け者で不潔だ、てなことを書いている。単純に怠け者、というのはちょっと違うけど、言われてみればたしかに不潔っていうのは当たってるのかもしれんな、と思った。もちろん、現代の我々はとてつもなく清潔だ。しかしそれはここ数十年の間にそうなってしまったということであり、確かにもともと日本人は、不潔だったはずだ。まああまり不潔不潔というとちょっと語弊があるな。潔癖じゃない、とでもいうべきか。今みたいに毎日風呂に入ったり、毎食後に歯磨きをしたり、なんて事は無かったはず。
「清潔になり過ぎた」と書かれている昭和初期の状態でさえ、今の基準からすると、かなり不潔といえるのだけど、それでももっと昔から考えると清潔になっており、そのために失われつつあるある種の美しさを惜しんでいるわけだ。
誤解や偏見に基づいた、「それはちょっと違うんでないかい」というような内容も無いではないが、それでも実に鋭いといおうか、独特の視点であれこれと語られる蘊蓄・こだわりは、なかなかに読み応えがあって楽しめるのだ。