野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

空は青い、と彼は言った

新聞の広告で、「現象学は<思考の原理>である」なんていう本が10年近くも前に出ていたのだということに気付いた。竹田教授の本だ、気になる。

現象学は思考の原理である (ちくま新書)

現象学は思考の原理である (ちくま新書)


現象学ってのはもちろんあのフッサール現象学なわけで、つまりやたら難解で、この本を読み終わった今でも、正直なところ何が何だかよくわからなかった。
それでも竹田教授の本が面白いのは、フッサールにせよハイデガーにせよデリダにせよ、彼ら偉大な哲学者たちはいったい何を問題にしているのか、そして、なぜそれらを問題として取り上げたのか、についてていねいに説明されているところだ。そもそもこのあたりがよくわかっていないにもかかわらず、当たり前の前提としてまともに説明されることが無い、というのが、こういった哲学とか思想というものを難解にしている原因のひとつなんじゃないかと思う。だから竹田教授の本を読むと、結局はなんだかよくわからないなりにも、「ちょっとだけ前進した」ような感じを持つことができる。
宗教をはじめとする各種イデオロギーの対立を克服するために、普遍的に正しい世界観(世界像)というものはあるのか、あるとすればそれはどのようにしてそこに到達することができるのか、という「認識問題」の解決方法を提供しようとするのがヨーロッパの哲学であり、そこには宗教戦争など切実な歴史的事情というものがあったのだということがわかる。だからといって「現象学」が理解できた!というわけではないけど。
現象学の方法とは、われわれが世界のあり方を問い直したり、再検証する必要にせまられたときにとる基本の態度、基本の思考法を、哲学的な原理として方法化したものと捉えるのが適切」 (p.77)なんて言われると、そうかー、と思う。
フッサール現象学は、多くの人の誤解により不当な批判を受けている、と著者は言う(あんな書き方したら誤解されてもしかたないと思うけど)。その各種の間違った批判をひとつずつ粉砕していくのがまた、よくわからないなりに面白い。
この現象学を、デリダの記号論やヴィトゲンシュタインの言語論を引きながら言語学に援用する第三章の「言語の現象学」はかなり興味深い。

聞き手が、発語された「言語A」を介して、つねに発語者の「言わんとすること」をめがけ(志向し)、その確信が成立することで言語行為はそのつど成立する。これが言語の「信憑構造」の本質的な図式です。(p.145)

とか、

実存的企投に発する他者との世界了解の共有(分有)ということが、発語することの基本的「動機」であり、またそれが「現実言語」の「企投的意味」の本質です。さらに、このような関係行為としてほ言語による「企投的意味」の集合的な痕跡(積み重なり)として、言語の「一般的意味」辞書的意味)が成り立っているのです。(p.172)

えらく難しい言い回しだけど、じっくり読んで考えれば、なんとなくわかる、これは面白い。
とりあえず、フッサールには直接手を出さない方が無難だと思い知らされた。