野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

今度は大丈夫

内容がどうにも理解できなくて、途中まで読んでギブアップした「潤一郎訳 源氏物語 (巻1) (中公文庫)」、まずは田辺聖子版「新・源氏物語」でストーリーを把握してから再度挑戦。

潤一郎訳 源氏物語 (巻1) (中公文庫)

潤一郎訳 源氏物語 (巻1) (中公文庫)


この作戦は大成功で、今度はちゃんと読めた。そしてあらためて、これはストーリーを知らんかったら読めんな、と確信した。
そもそも原文は、パラグラフ内で主語がころころと変わるような場合でも、いちいち主語を明示しない。田辺訳ではこれに主語をちゃんと補完することにより、話の流れを見失いにくくしている。一方で谷崎訳は原文が持つリズムのようなものを現代語において再現することを主眼においているため、話の筋を掴むという点においては混乱を起こし易い。
仮に主語が明示されていたとしても、人の名前が直接に書かれていることはほとんど無い。そもそも、原文において登場人物のほとんどが、名前がわからない。わからないままでは話にならないので、大抵が官職名や方角などによって示されている。つまり、大将とか中納言とか右大臣とか北の方とか西の対とか。
始末の悪い事に、これらは時間の経過にともなって変わって行くのだ。つまり、官職は昇進などにより変わるし、方角は住んでいるところや立場を表すのだがこれも当然変わる。これがまた混乱を引き起こすもとなのだ。
さらには、原文、そして谷崎訳では大幅に省略されている重要な話がいくつかある。たとえば藤壷の宮と源氏の君との関係がそうだ。田辺版ではこのあたりをかなり丁寧に、おそらく訳者である田辺氏の創作も含めて(それがタイトルに「新」が付く所以なのだろうが)書き加えることにより、現代の我々が読んでも話が見えるように工夫されている。
人の名前やその他諸々についてあまりexplicitに(明示的に、あからさまに、露骨に)指し示さない、というのはなるほど我々日本人が昔から持っている奥ゆかしさなのだろう。しかしそれはあくまでコンテクストを共有しているものどうしでなければ成り立たない。原作が書かれてから千年も経過すれば、仮に文章そのものを解読できたとしても、内容を理解するのは困難を極めるだろう。谷崎訳においても、その千年間のギャップは当然埋めようとはしているが、それと原文の雰囲気への忠実度とのトレードオフにおいては、「平安朝の気分」(訳者序文より)を壊さないことに重きを置かれている。そして新々訳ですら、それが書かれてから40年以上が経過してしまった今、やはり谷崎訳を楽しむには、ある程度の予備知識は必要というわけだ。
さてこの第1巻においては、「花散里」の帖までが収録されている。田辺版の上巻ではたしか「澪標」あたりまでがカバーされていたので、とりあえず谷崎訳の第2巻をそのあたりまで読むことにする。