野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

ランゲルハンス島から北斗七星まで

心斎橋のコナミスポーツで泳いでみた。広くてきれいでなかなかよろしい。もう少し利用料が安ければ言う事がないのだが。
泳いだあと、遅い昼食を摂った。皿うどんが食べたかった。皿うどんといえば中央軒、だが、あそこの皿うどんは無闇に量が多い。高いし。長堀橋あたりを軽く探索すると、ギョウザのみんみんがあった。揚げそば650円。おう、ここで食べよう。注文して出てきた揚げそばを見て絶句した。いや最初からずっと黙っていたのだけど、とにかく絶句した。大きめの丼にてんこもり。
しかし考えてみれば、同じボリュームのラーメンが出てきてもそんなに驚きはしないだろう。要は気の持ちようだ。畳の縁を歩け、と言われてもどってことないが、同じ幅の板が深い谷を挟んで断崖絶壁に架けられているのを渡れ、と言われると失禁してしまう、ということだ。



さてこの週末に、「世界は分けてもわからない」を読んだ。
あいかわらずこの人の文章はリリカルだね。
世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)


「全体は部分の総和以上の何ものかである」ということを、福岡ハカセは「生命現象において部分と呼ぶべきものはない」と書いた。いや、ちょっと違うんじゃないかな。部分はやっぱりある。だけど、全体を部分に分ける境界線は、自明ではない。つまり、そこには必ず恣意性がある。彼が言いたかったことはそういうことじゃないかと思う。生命現象に限らず人間は、世界を理解するために、全体を都合の良い(理解可能な)部分に分割したうえで、それらを組み合わせようとする。しかしその分割のしかたは、多分に恣意的なものであり、そこに「間違い」が発生することは避けられない。それを指して、「世界は分けてもわからない」と言っているのだと思う。
では、どうせ分けてもわからないんだから、もう分けるのやめてしまおうか。というとそうではない。分けてもわからないのは知ってる。だけど分けないとわからないんだから、それでも分け続けるのだ、と。

分けてもわからないと知りつつ、今日もなお私は世界を分けようとしている。それは世界を認識することの契機がその往還にしかないからである。
(あとがきより)

この前読んだ「日本の難点」にも同じようなことが書かれていたな。「境界線の恣意性」については百も承知の上で、ではその境界線の内側にいかにしてコミットメントするか、てなことが。同じ事を言ってるんじゃないかと思う、多分。