野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

フーコーが語る

前から気になってはいたのだが、ついに手を出してしまった。フーコーの「わたしは花火師です」。

わたしは花火師です―フーコーは語る (ちくま学芸文庫)

わたしは花火師です―フーコーは語る (ちくま学芸文庫)


厳密にはフーコーの著作、ではない。フーコーのインタビューや講演の記録だ。だから、ちょっとだけ、読みやすい。
フーコーは自身を「哲学者ではない」と言い切る。じゃあ何なんだ。
というわけで、「わたしは花火師です(Je suis un artificier)」と。

わたしが作り出しているものは、結局のところは占領と、戦争と、破壊に役立つものです。わたしは破壊することが好ましいとは考えていません。それでもわたしは通り抜けること、前に進めること、壁を倒せることは好ましいと思っています。

何なんそれ、よけいわからんわ。わからんけど、キーワードは「主体」と「権力」と「真理」。どうもフーコーは、あちこちで喧嘩を売る、というかあえて話を引っ掻き回す、そんなことをやろうとしてたんではないかと思う。
インタビュー(対話)はまあまだ何とかなるが、講演になるともう、ダメね。結局、彼の著作を読むのとそう変わらない。「批判とは何か ー 批判と啓蒙」は、かなりキツい。カントを引いてきて、あれこれ言われても。
「医療化の歴史」と「近代技術への医療の統合」は多少マシだな。言わんとしていることがまだ、何となくわかる。これは多分、「狂気の歴史」と「監獄の誕生」の元ネタになってるな。
「治療装置としての病院」というのは、実は18世紀末になってやっと出てきた近代的なコンセプトであったというの興味深い。もともと施療院(hôpital)は、医学的な治療をするところではなく、貧者を扶助し、隔離し、排除する場所、人が死ぬために訪れる場所であったというのだ。この施療院の無秩序な空間の中に規律のメカニズムを導入し、権力システムが変化したことで、医学的な施設としての「病院」が誕生した、と。
面白いのは、「病院はたんに治療の場であるだけではなく、医学的な知を生みだす場所になった」ということだ。時には「治療の場」であることと「医学的な知を生みだす」ことは両立しない場合があるんではないだろうか。そういうジレンマが実は、例えば先日読んだ「ブラックペアン1988」等の海堂尊氏の小説なんかでは取り上げられたりしてるんじゃないかと思うのだな。