野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

びちょびちょとうとうと

先週の金曜日より、梅田ガーデンシネマにて「タルコフスキー映画祭」開催中である。土曜日の「惑星ソラリス」を観たかったが、なにぶん抜歯やらmama! milkやらでそれどころではなく、とりあえず日曜日の「ストーカー」を観に行くことにした。
なんでも東京では行列ができていたとかで、こらえらいこっちゃなと警戒していたのだが、大阪ではぜんぜんそんなことはなく、さしてキャパの大きくない梅田ガーデンシネマにおいてさえ、客の入りは3割〜4割程度というのも、ありがたいやらちょっと淋しいやら。いや実は駅から新梅田シティへ向かう人々の群れは存外多く、現地に着くと行列ができていたりしたので少々焦ったのだが、実は行列はお化け屋敷のそれだし、人が多いのはオクトーバーフェストのせいであった。
さて、「ストーカー」。初めて観る作品だ。隕石の落下か宇宙人の襲撃かはわからないが、ある日突然そこの住人は忽然と姿を消し、その一画は立入禁止区域となってしまう。そしてその奥にはあらゆる望みがかなえられるという、「部屋」がある。立入禁止であるにもかかわらず、そこを目指して行く人々は後を絶たない。それを案内するのが「ストーカー」である。なにも誰かにつきまとったりするわけではない。stalkerのもうひとつの意味、「密猟者」というのが近いだろう。
昨年の福島第一原発の事故以降、この映画の見方であるとか意味っていうのはずいぶんと変わったんじゃないだろうか。水や風や炎と同じように、タルコフスキー映画に欠かせない「聖なる狂人」=佯狂である「ストーカー」。彼の文明批判は3・11以前にも増して刺さる気がする。実はこれは「サクリファイス」についても同様だ。驚くべきは、「ストーカー」が作られたのは1979年、チェルノブイリ原発事故よりさらに前である、ということだ。
小難しいことは別にして。どういうわけかこの作品は他に比べても水気が多い。タルコフスキー作品に水(雨、霧、池、川、水たまり、その他諸々)は欠かせないが、それでもなお水っぽい。びちゃびちゃだ。そしてあの美しい映像を見てびちゃびちゃになりながら、ついうとうととまどろむのがまた、なんとも気持ちええんである。
そんなわけで俺様は、いまだかつてタルコフスキー映画を、覚醒したままで通して観たことがない。別に自慢するわけじゃないけど。