野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

あんたいつのまにそんなえらなったん

三国志』もついに第12巻、最終巻だ。

司馬懿の後を継いだ司馬師、皇帝の曹芳があまりに素行が悪いので廃位してしまい曹髦を据える。そんなことしてると当然、何調子に乗ってけつかんねん、と各方面から反感を買う。そして地方では反乱が勃発したりもするわけだが、その辺はまあ何とか鎮圧するものの、文字通り目の上にタンコブができた司馬昭、大人しくしとけば良いのにうろうろするもんだから、タンコブ切ったあとか何か知らんけどその辺が悪化して死んでしまったよおい。さらにその後を継いだのが司馬師の弟、司馬昭だ。何だかんだと事情があり、そして紆余曲折の末に司馬昭は結局、皇帝の曹髦を殺すことになる。その後が魏王朝で5代目そして最後の皇帝となる曹奐だ。曹奐は「蜀を討伐せよ」との詔を発する。ここで活躍するのが何と鄧艾と鍾会だ。WOWOWのドラマで、鍾会はともかく鄧艾は地方の小役人だったのが司馬懿に取り立てられてどんどん出世していってるが、まさか将軍にまでなって蜀を滅ぼすことになるとは思わんかった。まあとにかく、劉禅が降伏して蜀が消滅し、これをもって三国時代は終了、ということで、ここまでが宮城谷三国志のスコープだ。呉の滅亡の経緯については本編ではあまり触れられていない。文庫の各巻の最後にボーナストラック的なものが入っており、第11巻と第12巻のボーナストラックが、「孫皓と呉の滅亡」のそれぞれ上と下になっている。
いやあ疲れた。しかし面白かった。長らく日本人にとっての『三国志』のスタンダードは吉川英治(または横山光輝のマンガ)だったのだろう。おそらくそれにぶつける新解釈として、北方謙三版がハードボイルド仕立てで提出された。しかしこれらはいずれも、かなり『三国志演義』より、すなわち史実よりも講談的エンタテインメント性を何よりも重視していたはず。これらに対するアンチテーゼが宮城谷三国志であり、とにかく史書に忠実に解釈していくとどうなるか、というのを追求した結果なのではないかと思う(少しばかり異端のポジショニングに酒見賢一の『泣き虫 弱虫 諸葛孔明』シリーズがある。わたくしはこちらも大好物だ)。もちろんこれは歴史書でなく小説である。すべてが史実ではない。ただし、できる限りの事実を収集し、欠けている部分は持てる想像力を駆使して補完するによって出来上がったのがこの物語なのだろうと思う。そしてその姿勢はとてつもなくストイックだ。

みえないものあるいはみえにくいものを視るのが小説家の想像の目であるとはいえ、その目によってみえたものが、史実の制御力を失った空想や妄誕であっては、真実の地平から遠ざかるばかりである。
(第7巻 pp.369-370)

そう、「史実の制御」のもとで、小説家の想像力をフルに発揮させて作り出されたこの小説が、面白くないわけがない。