5年間で8,000以上の落語を、ライブで聞くなどということが、普通の人間にできるものだろうかと思ってしまうのだが、世の中にはそういう人もいるのだ。普通の人間ではないのだろう。
以前読んだ「落語の国からのぞいてみれば」(2008年8月22日のエントリ参照)の作者、堀井憲一郎さんはそういう人らしい。その堀井さんの新しい著作「落語論」は、今度は正面切って落語そのものを論じている。タイトル通りだ。
- 作者: 堀井憲一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/07/17
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落語は話芸であるが、言葉はその一部に過ぎない。正しい原文はない。演題は符牒に過ぎない。サゲにも意味はない。ここでお話は終わりですよ、という合図でしかない。すぐれた噺ほど、サゲに頼らずに成立している。だからそんなもの分類するな。
落語は、歌である。同じ落語を繰り返し聞けるのは、落語が歌であるからだ。言葉より音のほうが大事だ。リズムは前に進めていく力、メロディはその場で旋回しようとする力。この相反する二つの力、つまり「お話」と「歌」の対立・拮抗が話芸としての落語の魅力である。
そして、落語はペテンである。内容なんか実はどうでもいい。頭で考えさせず、冷静な判断もさせず、熱気でもっていき、身体に響かせ、圧倒する。「よくわからないけど、何だかすごい」と思わせるものだ。ヒトラーの演説と同じだ。だから落語はライブで聞かないといけない。テレビを通してしまうとペテンの力が弱まってしまう。ラジオよりはマシなはずだが、テレビというものは受動的に気を抜いて見るものだから実はもっと不利なのだ。
などなど。大変に読み応えがあって面白い。なるほどそうだよな、と思うところが多い。落語は歌だ、とかね。米朝師の声は聞いてるだけで気持ち良いし。
まあまた、寄席にも行ってみるよ。