1970年代に起こった連続企業爆破事件の容疑者として、50年にわたって指名手配されていた「桐島聡」を名乗る男が鎌倉市内の病院に現れた、というニュースを聞いた。
ちょうど『ある男』を読み終わったところで、何ともタイムリーな話である。
『ある男』では、谷口大祐を名乗る男が事故死した。その後で、事故死した男は実は谷口大祐ではない、ということが発覚した。
人のアイデンティティとはいったい何なのか、ってけっこう難しい話だ。
特定の個人を構成する物質(分子)は、ほぼ半年ですべて入れ替わってしまう(ひょっとすると3ヶ月だったかもしれないが、まあだいたいそれくらいだ)と言われる。つまり半年後にはその人の構成分子はまったく別物なのだが、だからといって別人として扱われるということはない。
ではいったい何がその人をその人たらしめているのか。
遺伝子情報か?実際、身元のわからない誰かの素性や血縁関係を特定するのにDNA鑑定が使われ、みんなそれを信用するわけだから、まあそういうことなのだろう。
でも、この小説の中でも触れられていたように、人の特性というのはDNAだけでは決まらない。ざっくり言えば、同じDNA配列であっても、どの遺伝子が発現するかは周囲の環境に依存する。エピジェネティクスというやつだ。
考えるほどに、自分自身の足下が、なんだかだんだんと怪しくなってくる。
まあそんな難しいことを考えなくても、とりあえずはミステリーとして十分に面白い。
そして、ほど良い湿度の感じられる文章が心地よい。主人公の城戸の心象についての叙述は、ここまでやられるとくどく感じそうなものだが、少しばかりの引っ掛かりがありつつ、そこが逆に不思議な魅力だったりもする。
なお桐島聡と聞いて「おい、桐島!」というキャッチフレーズが出てきたのだが、正解は「おい、小池!」で、徳島市で起きた父子殺害事件の小池俊一容疑者のものだった。小池容疑者は2012年に、「小笠原準一」と名乗ったまま52歳で死亡している。
人の記憶なんてのは、ええ加減なもんです。