野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

ブログは書くな

本のタイトルは大事だ。インパクトのあるタイトルの本は、「ん?」と目にとまって、つい手に取ってみたりする。だからと言って、最近の何でもかんでも「〜するな」というタイトルにはちょっと食傷気味だ。「小さいことにくよくよするな!」「千円札は拾うな。」「食い逃げされてもバイトは雇うな」「お金は銀行に預けるな」「会社に人生を預けるな」「コピー用紙の裏は使うな」「会社の電気はいちいち消すな」「検索は、するな」… 俺様に指図するな。
こんだけ並べたら「するな」がゲシュタルト崩壊をおこしてきたがな。
そんな「するな」本のひとつ「思考・発想にパソコンを使うな」(あぁもう!)を読んだ。

思考・発想にパソコンを使うな (幻冬舎新書)

思考・発想にパソコンを使うな (幻冬舎新書)


実は昔から「手書き」に興味がある。これだけパソコンやら携帯電話やらPDAやら(はもうあんまり使われてないが…)が発達し、大抵のことはディジタル的に処理ができるようになっているこのご時世だが、それでも手書きの文章とか図というのは、「何かが違う」とずっと思っていた。見た目もそうだし、書くときもそうだ。先日読んだ「リファクタリング・ウェットウェア」は、その「何か」を割とうまく説明してくれていたように思う。この本では以下のように説明されている。たとえば自動車は、移動をする際に体が楽をできるようにするために作られたものだ。同様にパソコンも、情報処理をするときに脳が楽をできるように作られている。だから、自動車ばっかり使ってると運動不足でメタボリック症候群を心配することになるように、パソコンに頼りすぎると、脳もメタボになる、というわけだ。なるほど、と思った。だからアジャイル系のソフトウェア開発者たちは、コースターの裏や紙ナプキンにクラス図やコラボレーション図を描くのを好むのか。知らんけど。
パソコンでしか文字入力をしないと漢字を忘れる、というのももちろんある。でもそれだけじゃなくて、パソコンで文字入力をしているときは、脳のある部分は使われていないようだ。だからその部分がどんどん退化する。パソコンを使っているときはあんまりそれはわからないが、手で何やかやと書いていると、確かに「パソコン用と違う」脳の部分を使っている感覚がある。それがおそらく手書きの「何かが違う」という感じのもとなのだろう。
まあとにかく、色々と書いてみることにしよう。