2年ほど前にロラン・バルトの「エクリチュールの零度」を読んだが、まったく歯が立たなかった。
あの本を読むのはフランスの知的階層に属する人々に限定されており、内容を理解できるのはせいぜい5000人ぐらいとバルトは見積もっていたのではないか、とウチダ先生はブログに書いておられる。
http://blog.tatsuru.com/2010/11/05_1132.php - エクリチュールについて
http://blog.tatsuru.com/2010/11/05_1518.php - エクリチュールについて(承前)
http://blog.tatsuru.com/2010/11/06_1744.php - リーダビリティについて
なるほど。「言語運用は階層社会を再生産するためのもっとも効率的な装置である」ということが、バルトの言わんとしたことだったのか。誠に遺憾ながら、わたくしはそのようなメッセージを読み取れなかった。
上記の「エクリチュールについて(承前)」には、以下のように書かれた部分がある。
私は文化資本の排他的蓄積を望まない。
私は水平的にも垂直的にも流動性の高い社会を望む。
そのためにも、バルトやブルデューのようなすぐれた知性のみが生み出しうる卓見をできるだけ多くの人々が「リーダブルなかたち」で享受できることを望むのである。
これがまさに、ウチダ先生の執筆活動におけるモチベーションであり、わたくしがウチダ先生を敬愛してやまない理由のひとつなのではないかと思う。
書きたかったことはすでに上記の3つのエントリに書かれてしまっているのかもしれないけれど、やはりあらためて「街場の文体論」として読んでみたい。いつ出るのかわからない(出ないかも知れない)そうだけれども。