どういうきっかけでだったか思い出せないのだけども、中上健次の『路上のジャズ』を読んでみたい、と思って心斎橋のブックファーストとか喜久屋書店で探したのだけど見つからない。梅田の紀伊國屋書店でやっと見つかった。
著者は18歳の時に突然東京へ出てきて、それから23歳までの5年間、ジャズ・ビレッジというジャズ喫茶に入り浸り、クスリでラリながらジャズを聴き倒していた、という。前半はその様子をあれこれ書きつづったエッセイだったり詩だったり小説だったりするのだが、うーむこれがどうもちょっと読んでて辛いものがある。『罪と罰』のラスコーリニコフとか『ライ麦畑でつかまえて』(あるいは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)のホールデンとか、ああいう中二病なやつらを見て(読んで)いると、どうにもイライラするのだ。それは、わたくしが偏狭な中年男だからであって、若い頃に読んでいたのならまた違った感想を持ったのかもしれない、それは認めよう。実際『罪と罰』を20代の頃に読んだ時は、そんなに嫌悪感を抱いた記憶はない。でもまあとかく、クスリでラリって頭も身体もさっぱりワヤ、てな話を繰り返し聞かされても、はあそうですか、てなもんだし、だいたい便器に流した水で注射器を洗って、そいつでクスリを、なんて話はもう気色悪くて仕方がないので勘弁してほしい。
それでも第III部「破壊せよ、とアイラーは言った」の、ジャズの名盤にまつわるいきつかのエッセイ、そして「ジャズから文学へ、文学からジャズへ」というロングインタビュー、これらはなかなか良いので、もうこの辺だけで一冊にしてくれればよかったのに、と思う。
それにしても、“Relaxin‘”を「リラックスィン」、Miles Davisを「マイルス・デビス」と表記するのは個人的にはちょっと気色悪い。もっとも後半では“Relaxin‘”は「リラクシン」になっていたが、Davisはデビスのままだ。まあその辺をあまり突っ込みすぎると、じゃあお前Peter Gabrielは「ピーター・ゲイブリエル」ってちゃんと書いてるのかよ、Oasisは「オエイシス」って呼んでるのかよ、てな感じで藪蛇になりかねないのでこれぐらいにしておこう。
ただ、「コードとの闘い」ではジョン・コルトレーンの「クル・セ・ママ」に触れ、マイルス・「デビス」は結局ブルースばっかりやっていたがコルトレーンはコードを破壊した、みたいなことを書いてたけど、それって事実誤認じゃないの?コードを破壊してモードを持ち込んだのがマイルスじゃないのかよ。マイルスが“Kind Of Blue”でモードをやりだしたのと同じ頃の“Giant Steps”あたりはまだ、展開は超高速で、速すぎて見えない(聞こえない)かもしれないけどコードはあるじゃないか。「クル・セ・ママ」でコードを破壊した、というよりスピリチュアル方面へ行ってしまい鈴を振り始めた、てことじゃないの?いや、知らんけどさ。
まあその辺はどうでもよろしい。とりあえず中上さんってめんどくさそうな人よね。