野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

話は思わぬ方向へ

新型コロナウイルス感染症が流行し、「不要不急の外出を控えるように」そして「テレワーク推奨」なんて言われるようになった。もちろん、それでも現場に行かないとできない仕事ってものがある。それは往々にして、その仕事を誰かがやらないと一般市民の日常生活が正常に機能しなくなる、という仕事でもある。
それらはエッセンシャル・サービスと、またそれらに従事する人々はエッセンシャル・ワーカーと呼ばれる。コロナ禍までは聞いたことのなかった言葉だ。
一方で、オフィスに行かないとできない、あるいは著しく効率が落ちると思っていた仕事のうちかなりの部分は、実は(それなりの環境さえ整えば)自宅などでもできてしまうんじゃないか、ということが明らかになりつつある。
さらにもう一歩踏み込むと、ある種の仕事って別にやらなくてもどうって事ないんとちがうの?ということに気付き始めていたりもする。
エッセンシャル・サービスの対極にある、クソどうでもいい仕事、デヴィッド・グレーバーはそれをブルシット・ジョブと呼んだ。
彼の著作『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』では、世の中のありとあらゆるブルシット・ジョブがいかなるものであるかが、当事者の証言に基いて事細かに述べられる。

そんなの本当にあるのかよ、とにわかには信じ難い内容も多い。が、いややっぱりあってもおかしくないかもな、という気にもなる。
そんなムダなことをやってる余裕なんかあるのかよ?と思うが、本書によれば、1947年を基準にすると、我々の労働の生産性は4倍に向上している。まことに結構なことだ。しかし、そうだとするならば我々の労働時間だって4分の1とは言わないまでも、たとえば3分の1とかせめて半分とかになってもおかしくないはずだ。なのにどういうわけか労働時間は減らず、過労死する人まで出てくるってのはいったいどういうことなのだ?
それはつまり、生産性が上がって不要になった労働力の行き先としてブルシット・ジョブが用意されたからだ、というのがグレーバーの答えだ。なるほど。
ブルシット・ジョブの多くは、かなり給料が良いらしい。ブルシットでも高い給料もらえるんならそれでも良いじゃないか、と思ってしまうが、どうもそういうものでもないらしい。何の役にも立たない仕事をやらされること、というのは、着実に人間の精神を蝕むものなのだそうだ。うむ、そうだな、わかる気がする。
ブルシット・ジョブのショーケースを半信半疑で読み進めて行くうちに、話はそもそもの労働観とか、ヨーロッパを起源とする労働価値説なんていうあたりにつながり、ついにはベーシックインカムについての議論まで展開される。グレーバーの主張はけっこう過激に思えるのだが、この辺りが本書の面白い部分だろう。
わたくしの仕事はブルシットではない、と信じている。時にブルシットなものが紛れ込んでくることもあるが、そういうものはできるだけ避けるようにしている。それでも何とか普通に生活できているのだから、ありがたいことなのだと思うべきなのだろうな。