野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

手こずらせやがって

先週のエントリのタグが軒並み「埋め草」になってしまっているのはこいつのせいだ。スーザン・ソンタグの「反解釈」。

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)


これはまあ、評論集だ。だからその批評の対象について知らないと、「だから何やねん」ということになる。いや、実をいうと知っていてもそうなる。一言でいうと、ちょっと難解だ。
書かれたのが1960年代、ということで、かなり古い。最近になってやっと気付いたことだが、ある種の本は、それが書かれた時代のコンテキストを理解していないと、何が言いたいのかわからない、あるいはわかったとしても、それがいったいどうしたのだ、ということになる。その手の本は、その時代において一般に信じられている考え方や通念といったものに対して、「それはちょっと違うんでないの」というアンチテーゼを突きつけている。だからそのコンテキストを理解していることは、いわばその本を読むための前提条件になっているわけだ。
この本でも、「芸術作品において重要なのは内容ではない、形式、様式、スタイルである」という主張があちこちに顔を出す。それって当たり前ちゃうん、と思ってしまうが、どうやらそうでもないらしい。おそらく、60年代においては、芸術作品の<内容>を<解釈>しようとする批評が幅を利かせていたのだろう。
同様に、「<キャンプ>についてのノート」において、当時現れ始めていた<キャンプ>なる言葉とそれが表すもの、について考察し、あれはキャンプ、これはキャンプでない、と解説している。時代はめぐり、<キャンプ>なものは我々の日常の中に定着してしまっているが、<キャンプ>という言葉そのものは死語になってしまった、らしい。結局、<キャンプ>とは何なのか。わかったようでわからない。

ほぉー、と思ったのは以下の一節

本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力をもっている。だから、芸術作品をその内容に切りつめた上で、それを解釈することによって、ひとは芸術作品を飼い馴らす。解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする。

そして、一番最初の、まえがきに書いてあった

私が書いてきたのは、厳密に言えば、批評でもなんでもない、あるひとつの美学、すなわち私自身の感受性についてのあるひとつの理論を築くための個人的症例研究にほかならなかったのだ。私が真に追求していたのは(自分でいつもそれに気づいていたわけではないのだが)特定の作品についての特定の判断ではなかった。ある種の判断や趣味の根底にある暗黙の前提をえぐり出し、明らかにすることを、私は求めていたのだ。

というのを読んで、そうか、と思った。毎日こうしてちまちまと、色んな本やら音楽やらの感想を書きつづっている理由がちょっとわかったような気がした。もちろんソンタグと俺様ではずいぶん違うのだけど、どこか通じるものはあるような気がした。