なんの役にも立たないことを日々つづっている当ブログであるが、それでも楽しみにして読んでくれているという奇特な方がたまにおられる。わたくしの偏愛する某イタリアンバールのMさんがそうだ。Mさんいわく「池波正太郎さんのエッセイみたいな感じにしてくださいよ」。いやそんなん無理でしょ。ていうかそもそも池波正太郎さんのエッセイて読んだこと無いですよ。
じゃあちょいと読んでみようか。ということで「散歩のとき何か食べたくなって」に手を出してみた。なんか良さげなタイトルだ。
- 作者: 池波正太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1981/10
- メディア: 文庫
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いやー面白い本だ。池波先生、なかなかの健啖家でいらっしゃる。しかしながらこれはいわゆるところのグルメ本というようなものとは趣を異にする。だいたい、食べたものがいどのように美味であるかということについて、ほとんどと言って良いほど書かれていない。ただ、「こたえられない……」と書かれているのみ。
そのかわりに事細かに書き込まれているのが、いかなるコンテキストで池波先生がかような美味を楽しんだのか、ということである。いつ、誰と、どんな腹具合で。仕事の合間にちょっと抜け出してなのか、映画を観に行く前なのか、しっかり飲んだ帰りなのか… ということが詳述される。くわえて、それぞれの店がどのような造りになっているのか、そのあるじがいかなる仕事ぶりをしているのかといったことが極めて具体的に書かれている。結果、天ぷらであれポーク・カツレツであれ寿司であれ、すべてがとてつもなく魅力的に感じられるのだ。
巻末には、本の中で触れられたすべての店の索引までついている。が、それらの店を訪ねてみようとは思わない。それは何もすでにかなり古い情報(昭和50年代に書かれたエッセイなんである)になっているから、とか東京の店が多いから、ということではない。彼と同じ店に行ったとしても、決して同じ体験はできないからだ。
何かを美味しくかつ気分良く飲み食いできるかどうかは、その人の「コンテキスト」に強く依存するのだ(当たり前っちゃあ当たり前の話だが)。「ええ店」を探しても仕方ない。探しても良いけど、その店と自分のスタイルなり習慣なりとをどう折り合いをつけるか、ということの方が実は大切なんである。
おお、なんだかぐだぐだと書いてるうちに何が言いたいのかよくわからんようになってきたが、ま、そういうことだ。
池波先生の若い頃は、昼間に会社勤めをして夕方から酒を飲んだ後に深夜または明け方まで小説や脚本を書く、というような生活をしていたらしい。なんというパワーか。酔っ払うとブログの更新もままならない俺様からすると、まるで超人の所業である。恐れ入りました。