野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

あたしはお寺で聞いたことはございませんが

釈徹宗せんせの「おてらくご」がずっと気になっていたのだけど、よく行く梅田のブックファーストではずっと在庫切れだった。どーいうっちゃコラ、と思っていたが、先週巡回したときに発見したので即買い。分類として、「宗教」の「浄土真宗」のコーナーに置かれている。うーん、まあそれも間違いではないと思うけど…

おてらくご―落語の中の浄土真宗

おてらくご―落語の中の浄土真宗


落語における宗教性、というのがこの本のテーマなのだけど、最初は大きく、宗教と芸能の関係、というあたりから話は始まる。「芸能」は、「宗教儀礼」をマネたものから始まったと考えられている(p.10)、と。なるほど。寺院が寄付を募るための「勧進劇」とともに発展していったのが語り中心の「唱導」であり、これが落語のルーツであると。お寺の説教が落語のルーツである、てなことをよく言われるが、その辺もっと詳しく説明していくれている。ちと詳しすぎてあまり頭に入らなかったけど。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて生きていたとされる僧侶、安楽庵策伝、彼の著作である「醒睡笑」全八巻が、現代まで伝わっている古典落語のもとになっているのだそうで。なんでも策伝はすぐれた説教師として知られており、オーディエンスが退屈して寝てしまわないように、説教にちょっと面白い話をはさむ、そのための彼が仕込んでいたネタ帳とでも言えるのがこの「醒睡笑」なんだそうだ。なるほどタイトルがもう、睡を醒まして笑わせる、となっている。
個別のネタに関しては、そこに見られる特定の宗派の色が濃い仏教的要素を、浄土仏教系、禅仏教系、真言宗天台宗系、奈良仏教系…と極めて細かく分類しているあたりはさすが宗教学者。
何より、

私は、このような「認識の危うさ」「認識への懐疑性」は、割と落語全般に見られる傾向じゃないかと思います。落語を聞いていると、しばしば「ばかだね、自分の都合で解釈するからそんなことになるんだよ」と聞き手に感じさせる場面に出会います。そして、そういう噺を聞いていると、「現象」とはそういうものなのだ、「現象」と「認識」は一致しないのだ。人間は自分の都合という枠組みを通して「現象」を「認識」するから、ものごとをありのままに受け取ることはできないのだ。自分の都合という枠組みがある限り、私たちはヘンな方向へと行ってしまうのだ。そんなことを再認識します。そして、そのような噺の構成には、間違いなく仏教の影響があると思います。
(pp.58-59)

というのには、なるほど!と深く感心してしまった。これまさに、いつも落語を聞いてなんとなく思うのだけどうまく言えなかったこと、なので。
最後に、お寺で落語会を開催するためのノウハウ、みたいなものがめちゃくちゃ具体的に、それもお寺側と噺家側の両方について書かれているのにはちょっと笑った。
ということで、意外と難しい、でも面白い本でございました。そして、節談説教1席と落語2席(「お文さん」と「寿限無」)を収録したCDつき、というのがまたお得な感じ。