野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

アルジェの黄色い太陽

新陳代謝を繰り返しながら、もう33年も続いている「新潮文庫の100冊」。1976年の一回目から今までのラインアップは、「新潮文庫の100冊」Webサイト(http://100satsu.com/)で調べることができる。100冊のうちどれくらい読んでるんかな、と気になって調べてみたところ、1976年版では24冊、そして最新の2008年版では21冊だった。減っとるがな。
さて、その100冊に33年間ずっとリストされている、カミュの「異邦人」をあらためて読み直してみた。

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)


手許にある文庫本の奥附を確認すると、昭和60年6月10日の第八十刷となっている。てことは大学生のころに初めて読んだんだな。例によって、まーったく内容を覚えていない。もちろん有名な小説なので、「きょう、ママンが死んだ」という出だしは覚えているし、誰かを殺して、裁判で「太陽が黄色かったから」と証言し死刑を宣告される、ってな話なのは知ってるけど。
しかし今回読み直してみると、「太陽が黄色かったから」なんて書いてないな。「それは太陽のせいだ」となっている。よくある勘違いか、それとも他の翻訳が存在するのか。
よく考えるとこの「異邦人」というタイトル、誰が異邦人やねん、ということになる。ムルソーが射殺したアラビア人のことかと思ったら、そうではない。カミュ自身が英語版の序文で以下のように書いているらしい:

母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。

我らがムルソー君自身が異邦人だったのだ。そして、「通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求した」なんて新潮文庫の紹介文では書かれているけど、ちょっと違うよな。論理的な一貫性はあると思うよ。出発点が違うというか、彼自身の価値観が多少ほかの人々とずれているだけでね。前述のカミュの序文からさらに引いてくると、

ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。

なるほどそうだな。だけどやっぱり、「絶対と真理に対する情熱に燃え」すぎると、社会生活で何かと不都合を生じてしまうというのも、よくわかる。だいたいが「絶対と真理」ほどアテにならんものはないからな。