野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

たまにはうどんもいかがですか

BSEによって米国産牛肉の輸入が禁止された時、それまでオールアメリカンビーフで牛丼を作っていた吉野家は、メニューから牛丼を消した。米国産牛肉が無ければ、オーストラリア産の牛肉でも牛丼は作れる。実際、他の牛丼屋はオージービーフに切り替えて牛丼を提供していた。
しかし吉野家は、米国産牛肉の輸入が再開されるまで牛丼をやめ、豚丼を売っていた。
オージービーフは美味い牛丼を作れないわけではない。そもそも、吉野家の牛丼がそんなに絶品だったのかと言えば、別にそんなこともない。しかし、あの「吉野家の牛丼の味」はアメリカンビーフでなければ出せない、のだそうだ。
つまり、味が落ちるから、ではなく、同じ味が出せないから、牛丼の提供をやめた、というわけだ。
内田百閒先生の『御馳走帖』に、昼食は毎日同じ時間に、同じ店の蕎麦ばかりを食べている、という話が出てくる。特に蕎麦が好きなわけではないし、特別その店の蕎麦が美味いわけでもない。しかし、毎日同じものを食べ続けていると「味がきまり」美味くなる。「うまいから、うまいのではなく、うまい、まづいは別として、うまい」のだそうだ。この話を読んで、上記の吉野家の牛丼の話を思い出した。

御馳走帖』というタイトルで、確かにご馳走の話はあれこれ出てくる。しかしながら百閒先生の場合、いわゆる美食家というのともちょっと違う気がする(健啖家であるのは間違いないけど)。
独自の美学と行動原理に基づいた、謎のこだわりがいろいろとある。先の、毎日飲んだり食べたりするものの味が変わることを嫌う、というのもそのひとつだ。少しばかり共感を覚える部分もなくはないのだが、端的に言って、全体的になかなか癖が強い。ひょっとして社会生活不適合者ではないですか、と思う。
猪の肉を貰ったら

毛の生えた猪の足頚が同じ箱に入れてある。気味が悪いから、この足頚でだれかを撫でてやらうと思つた。

などと書いている。何でやねん。
だいたいそんな調子だ。
面白かったけども、リアルではあんまり関わり合いになりたくない気もする。