野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

文庫のくせに1,000円もした

先日ロラン・バルトの「表徴の帝国」を読んだら、書かれている内容があまりにも意味不明で驚いた。それ以来、ロラン・バルトの著作は敬して遠ざけるようにしている、のかというと実はそんなことはない。性懲りも無く、今度は「エクリチュールの零度」に挑戦した。

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)


さすがに二冊目にもなると、多少は慣れてきてけっこう理解できるようになる… のかというと残念ながらそんなことは全くない。それどころか、ますます何が書いてあるのかさっぱり理解できない。まったくこれは恐れ入った。
以下、第I部の導入部分、「エクリチュールとは何か」より:

周知のとおり、言語体(ラング)は、ある時代のすべての著作家たちに共通の規則や慣習の集合体である。このことは、言語体が、著作者の語り(パロール)を全体的に貫通するものでありながら、それにもかかわらず、それにいかなる形式(フォルム)をも与えず、栄養さえも与えない<自然>のよなものであるということを意味する。すなわち、言語体は、もろもろの真実の抽象的な集合圏のようなものであって、孤立した言葉(ヴェルブ)の濃密さが積もり始めるのは、その外においてにほかならない。

…いきなりこれだから。で、延々この調子だ。
いわゆる現代思想関係の学者諸氏は、いったいどういう目的でもって、かかる面妖なる書物を著すのか。本を書くっていうのは、自分の考えを世の中の多くの人々にしってもらいたくてやることじゃないのか。こんなことを書いて、一体どれだけの人に何が伝わるの?もちろん、たとえば文章表現の技術に問題があって文章が分かりにくくなったり、ということはあるだろうし、それはある程度仕方ないと思う。でも、これは多分そういうのとはちょっと違うよな。どうもわざとやってるんじゃないかという気がする。何か、一般人に伝わってしまうとマズいような内容が含まれていて、ある種の「暗号化」を施しているように見える。そう、鍵を持っているごく一部の人々だけが解読可能なテクストなのだ。

被害妄想ですか?