野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

革命の鐘なんて鳴らない?

なぜオレの上司はあんなにムカつく野郎なんだ、とか、どうして毎日ネクタイなんぞ締めて満員電車でぎゅうぎゅうになりながら会社に行かないといけないんだ、というのを理解するには『資本論』を読むと良いらしい。
『武器としての「資本論」』にそう書いてあった。

武器としての「資本論」

武器としての「資本論」

なんかこれ、昨年読んだ『いま生きる「資本論」』と似たようなこと言ってるな、と思う。
雑に言ってしまえばどちらも『資本論』の解説だ。そして、現代の我々はなぜこんなに生きにくいのか、その原因を資本制社会に求め、資本主義の論理であるとか性質というものを『資本論』により理解する、というコンセプトは同じだと思う。
けれども、この『武器としての』の方が『いま生きる』よりも理解できた気がするな。
もちろん細部はいろいろと違っている。特に興味深かったのは、新自由主義の台頭と蔓延は資本家側から仕掛けてきた階級闘争である、という指摘だ。
なるほど、そういう見方はしたことがなかったな。
ご案内の通り、この闘争は資本家側の圧勝になったようだ。
けれども搾取される側にいるはずの少なからぬ人々が、この新自由主義的価値観を信奉しているように見える。これがすなわち「包摂」である、なんて説明されて、おおなるほどそういうことなのか、でも『いま生きる』で包摂についてマサルちゃん解説してきれてたかな、と思って一部読み直してみたが見当たらない。
他にも「本源的蓄積」について、これけっこう重要な概念だと思うんだけどなーと思いつつ『いま生きる』を確認してみると、確かに触れられてはいる。が、わりとあっさりしたもので、その暴力性とか正当性についての指摘はない。なかなか面白い。
大きな違いはやはり、資本主義の行き着く先は破滅であるかどうか、という点じゃなかろうか。
マルクスは、資本主義により富が蓄積されていっても労働者の生活は良くならず、いずれシステムは破綻するってなことを言っている。これに対して『いま生きる』では「窮乏化法則は妥当するかどうか」なんていうレポートを聴講生に書かせている。「んなこたあない」というのがマサルちゃんの考えだ。あ、違うか。宇野弘蔵の考え方として紹介されているな。とにかく、景気の変動で給料も上がったり下がったりはするけど、生産力が増大すれば労働者の生活環境も良くなる。恐慌というかたちで行き詰まることはあるが、それはイノベーションによって乗り越えていくことができる。というわけだ。
うーんほんとかな。それちょっとお気楽すぎるような気がするんだけど。
『武器としての』では、イノベーションにより生産性は向上していくが、それはあくまで富を増殖させていこうとする資本の性質であり、生産性の向上そのものが目的であるイノベーションは、必ずしも人を幸せにはしない、と言っている。確かにそんな気はするなあ。
単体でも面白いが、『いま生きる「資本論」』と読み比べるとまた新たな発見もあったりして、なかなか読み応えのある本だった。