野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

別に辛くはないのですが

新型コロナのパンデミック以降、斎藤環氏は「コロナ・ピューリタニズム」とか「コロナ禍により均質化された時間意識」とか「人と会うことの暴力性」といった論考を、次々とnoteで発表されている。
いずれもなかなか興味深い内容であるのだが、これらをお題として、あの佐藤優氏とした対談が『なぜ人に会うのはつらいのか』という本になっている。そんな組み合わせの対談があり得るのか(いやそりゃもちろんあるんだけども)、それはちょっと思いつかなかった、というかいったいどんな感じになるのか、うまく想像できない。ぜひとも読んでみなければなりますまい、ということで。

「暴力」というとどうしても強めの、かつネガティブな感覚が伴うのだが、ここではもう少しニュートラルというか価値中立的な「他者に対する力の行使」という意味で使われている。
人と人が会う時、そこには「暴力」が発動される。だから人と会うのはつらいのだ、と。
いや、誰もが人に会うことがつらいわけではない。実際わたくしも別につらいとは思わない。けど、言っていることはわかる気がする。
人に会うのがつらいというより、会わないのも気楽で良いな、ぐらいなところかな。

この度のコロナ禍により、ZoomやらTeamsといったWeb会議システムが一気に普及し、実際に人に会わなくてもかなりのコミュニケーションができるようになってきた。けれども、それらのオンラインミーティングは、まだまだ対面で会うこととはまったく違う体験である。技術的な制約により、音声も映像も対面とはまったく異なるものになっているからだ。
もし、技術が急速に進歩し、音声や映像のレイテンシーとクオリティーが、リアルとの差を人間には感知できないレベルにまで改善されたとする。つまり、実際に相手に物理的な接触を試みない限りは、目に見える、耳で聞こえる範囲において対面で会っているのと差がない、という状態になった場合には、リモートであっても暴力は発動するのだろうか。この辺りが気になるところだ。