先日読んだ『偶然の聖地』には、尋常ではない量の注釈が付いている。そのうちのひとつ、「そういうものだ」というフレーズに関する注釈において、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』について触れられていた。
なんでも、『スローターハウス5』においては「そういうものだ」というフレーズが何百回と登場するらしい。いったいどんな話なのかわからないが、それだけで激しく興味を惹かれ、読んでみることにした。
タイムトラベルもの、という言い方もできるのかもしれない。しかし普通のいわゆるタイムトラベルと明らかに異なるのは、タイムトラベルを行うタイミングおよび行き先を選ぶことはできないということ、そして、タイムトラベラーの肉体は動かず、意識だけがその行き先の時間に飛び、その時間における本人の肉体に移る、という点だ。
なるほど、これならタイムパラドックスは発生のしようがない。
主人公のビリー・ピルグリムは、トラルファマドール星人に拉致され、そのタイムトラベルの能力(?)を手に入れた、と主張する。
もちろん周囲は、ビリーがアタマおかしくなったと思っているのだが、作中ではビリーはとにかく、少年時代、第二次世界大戦への従軍、成功した眼科医、飛行機事故、交通事故による妻の死、などなどを繰り返し追体験する。
トラルファマドール星人にとっては、時間は空間と同列に扱われる第5の次元、なのだ。だから、ある程度の自由度をもって空間を移動できるのと同じように、時間も移動することができる。
これを読んでいて、カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』を思い出した。
我々は3次元の空間と直線的に進む1次元の時間、4次元時空により世界を認識している。
時間は一方向にしか進まない、というのはしかし、地球上の現生人類による捉え方であり、より高い次元を、より高い解像度で捉えることができるのならば、トラルファマドール星人のような世界の認識の仕方ができるようになるのではないか。
なお「そういうものだ」(So it goes)の登場回数については、103回とか106回とか、諸説あるらしい(なんでそんなにバラけるねん)。
いずれにしても100回強、といったところだろう。何百回、というのはさすがに誇張しすぎだ。感覚としてはやはり200ぐらいはありそうだ。106回、と言われると、え、そんなもん?もっとあるでしょ!?と思ってしまう。この約250ページの小説のなかで、同じページに複数回出てくるのは珍しくないのだから。
いずれにせよ、なんだかイカれた小説だった。こういうの好きです。