野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

青椒肉絲って美味いと思うけどな

ものすごく久しぶりに『ねじまき鳥クロニクル』を読んだ。以前に読んだのは、単行本が出て割とすぐだったから、1990年代の初頭、つまり30年ほど前ということになる。

もちろん細かいストーリーなんぞ覚えていない。スパゲティを茹でているところに謎の女から電話がかかってくるとか、加納クレタ・マルタ姉妹とか井戸とかバットとかの断片が記憶の片隅にあるぐらいだ。
そういえば漫画の『BECK』(今年の正月に一気読みした)で、モンゴリアン・チョップ・スクワッドのアルバムジャケットのデザインは井戸の底に置かれたバットだった。おお、これはねじまき鳥クロニクル、と思ったぐらいだから、この井戸とバットだけは妙に記憶に残っていたのだ。
で、改めて読み直すと、ああそうだった、と思い出すところと、そんな話だったのか… と驚くところと。
とりあえず牛河の登場には、おい久しぶりやないかこんなとこにおったんかワレ、という感じだが、もちろん『1Q84』よりもこちらの方が先なわけで、つまり牛河の初登場は『ねじまき鳥クロニクル』であるということを忘れていたのだな。
と思ったが、『1Q84』を読んだ時にはちゃんと覚えていたようだ。当時は牛河のことを一応は覚えていた、ということも今は忘れてしまっているのだ。ああややこしい。
ややこしいといえばこの話自体がややこしい。いや、ややこしいというよりワケわからん、と言った方が正確か。作品全体に必然性の感じられない暴力とエロスが溢れ、大量にばら撒かれる伏線らしきものはほとんど回収されない。様々の謎は最後まで解決されない。物語は具体的なようでいてメタフォリカルであり、そのメタファーに本当のメッセージが潜んでいるのだろうけども、読者の理解を拒んでいるようにしか思えない。
とてつもなく邪悪なものと闘う、平凡で非力な、しかし何か尋常ならざる能力を持った主人公。しかしそれら、邪悪なものの正体であるとか主人公の能力の内容について具体的に語られ、理解されることは決して無いように思われる。
こういうところが「村上春樹の小説ってワケわからん」と少なからぬ人々から敬遠される所以なのだろうと思う。実際、わたくしも読んでいてある種のストレスのようなものを感じないわけではない。しかし、そのストレスのようなもの、がまた村上作品の魅力でもあるのだと、改めて思った。