野生のペタシ (Le pédant sauvage)

Formerly known as 「崩壊する新建築」@はてなダイアリー

そういえば敬老の日だった

だいぶ涼しくなってきた。
けども日中はやっぱり暑い。だからさっさと行けば良いのに、ついダラダラしてしまうのだよ。
もひとつ気分が乗らず、山に行くだけの元気もない。
まあせめて緑の多いコースでも行っとくか、多少は涼しいかもしれんし。
ということで、まずは茨木カンツリー横のジョギングロード。
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あんまり涼しくなかった…

普通ならここから郡山宿、宿久庄を経て鉢伏自然歩道を目指すところだが、今日はそんな気分ではないので、福井方面から耳原公園へ。
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そして安威川に沿って南下し、西河原公園。
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この頃にはだいぶヨレヨレに。
いや、実際には家を出た時点ですでにヨレヨレだったかな。

へろへろと桜通りを通って帰り、なんとか16km。
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1kmあたり8分弱、てなペースで、まあよく言えばLSDだけど、要はヨボヨボなのだよ。
少なくとも今年に入ってから、6:00/kmより早いペースで走れたことなど一度もない。
さっき調べてみたら、昨年の11月に5:58/kmというのが一度だけあった。あの時はたしか、走った後で膝が痛くなって階段の登り下りに難儀したものだった。
別に速く走ることが目的ではないので構わないのだけど、さすがにちょっとヨボヨボ過ぎるかな、と思わんでもない。
もうちょい涼しくなれば調子も出てきて、多少はやる気も出てくる、かな?

ほうはん、とお読みするのでしょうか

呉漢って誰だ?とググってみると、後漢の武将で字は子顔(しがん)、南陽郡宛県(河南省南陽市)の人で光武帝の功臣、とWikipediaに書いてある。なるほど。
ちなみに後漢は「ごかん」と読むのだと思っていたのだが、どこかで「こうかん」と読ませているのを見た。おいどっちが本当やねんと思って調べてみたら、この光武帝後漢は「ごかん」でよく、後の五代十国時代にあった後漢を区別するためにそちらを「こうかん」と読むのだそうだ。ううむ知らんかったな。いやひょっとすると高校の世界史の授業あたりで習っているかもしれんが、そんなもん覚えているわけがない。
いずれにせよ『呉漢』は後漢の武将、呉漢の話だ。どっちも「ごかん」でややこしい。まあ中国語の拼音では違うのだろうな。
と思いつつ調べてみたところ、後はHòuで呉はWúだった。呉漢はあの武漢と同じ発音ということか。では中国人は光武帝後漢五代十国後漢をどう読み分けているのだろう、などと疑問はとどまるところを知らないのだが、もうキリが無いのでその辺のことはいったん忘れるとして。

三国志』にせよ『項羽と劉邦』にせよ、あの手のお話はだいたいが名将・勇将・猛将の武勇伝がてんこ盛りで、ちょっとばかしげんなりさせられるものだ。しかしながらこの洪武帝の功臣・呉漢の物語は少しばかり趣を異にする。
貧しい小作農から、どういうわけか周囲のいろんな人々から才能を見出され、取り立てられて自身も成長しつつまた出世していくという物語は、それだけで面白い。加えて、呉漢のキャラクターというのがまた独特である。とりたてて勇猛とか頭脳明晰とか稀代の戦略家とかいうわけではない。その手の能力は、なぜか周りに集まってくる奇才達にアウトソースしている。『三国志』なんかでは劉備玄徳が「徳の将軍」なんて言われていて、どこが?とわたくしなどは思ってしまう。しかし呉漢をそう呼ぶのなら、納得できる。
その徳は「寛容」ということもできるのかもしれないが、どちらかというと「諦念」の方が近い気がする。それは呉漢がずっと若い頃から農業をやってきたことによるものだ。農業というのは、自分がコントロールできないファクターが多く、本人の努力とは全く別のところで作用する力で動かされる不条理が常について回る。そういうものを受け入れることによって身につく寛容であったりレジリエンスであったり、また洞察というのがあるのだろうな、と思う。
そんなことを感じながら読むこの小説は、なんだか不思議な手触りがあった。これは呉漢という人物の特性によるのか、あるいは宮城谷昌光という作家のテイストなのか。
次は『劉邦』あたりを司馬遼太郎の『項羽と劉邦』と読み比べてみたりするとその辺も見えてきて面白かったりするんじゃなかろうか、と思っているところだ。

寄り道しすぎやろ

本当はトレランを予定していたのだけど、台風の影響により、大阪北部も昼過ぎまで雨、という予報になっている。
協議の末、とりあえず今回は見送りとしよう、と決まったのだが実際には夜のうちに雨は上がり、朝には晴れていた。
快晴ではないが、走るのには理想的と言っても良い天気である。
なかなか思うようにはいかんもんですな。
どないやねん、と思いつつ不貞腐れて半日過ごす。
それでもまあせっかくだからちょっとぐらい行っとくか、とやっと夕方になって重い腰を上げ、申し訳程度に6km。
久しぶりに安威川方面に行ってみた。
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すっかり日が短くなってしまったなあ、と思いつつ。

線香花火終了です

9月に入ってからは基本的に毎日出社しており、通勤手段も徐々に車から電車に戻しつつある。
しかしながら今日は雨だったので車にした。
帰路の摂津北ICあたりで20時半少し前。摂津北出口はこれくらいの時間でもたまに渋滞しているので油断がならない。特に雨の日は。じっさい火曜日は渋滞しており吹田出口まで遠回りして帰ったし。
などと警戒していたところ、あっさり中環に出られて拍子抜けしていたら、沢良宜西2丁目南交差点から先が渋滞していて動かない。いったいどういうことだこりゃ、と不審に思いつつよく見ると北行きの片側2車線のうち左側だけが渋滞しており、右側は流れている。すぐ先のマクドのところを左折したかったので気が進まなかったが、右側車線に出て渋滞している車列を追い越すと、なんと渋滞の原因は件のマクドであることが判明した。
マクドかよ!金曜の夜に、並んでまでマクド買うのかあんたらは!?
と驚くやら呆れるやら。

やれやれ参ったぜ、と帰宅して、仙禽 線香花火でまったり一杯。
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もう9月も後半だってのに線香花火もないもんだが、まあ美味いよね。
残念ながら空いてしまった。これでいよいよ夏も終わりだな。
これからいよいよ新酒の季節。10月には心おきなく飲めるようになっていてほしいものだが、さて…

遅くまで働くなってことだ

少しばかり仕事で遅くなったので、どこぞで晩飯を食べて帰ることにした。
というのがそもそも間違いなわけだ。
普通の飲食店は緊急事態宣言に伴う行政からの要請により、20時で営業を終了しているのだった。わかっていたはずなのに。
堺東駅前あたり、開いてない店が無いわけではない。が、吉野家松屋CoCo壱も、すべてテイクアウト営業だ。そりゃそうだろう。
実をいうと、普通に営業しており、さらに酒も出している居酒屋もある。店の前に「もう限界です」と書いてあった。ですよねえ。
が、さすがにその店に入る度胸はなかった。
もとより、飲むつもりはなく普通に晩飯が食べられれば良いところで居酒屋メシは少々面倒(嫌いではない、というかむしろ好きだけども)であるし、昨今そのような奇特な店はかなり「密」であるケースが多い。
そんなわけで、電車の待ち時間にコンビニで買ったおかきなど食べてお茶を濁すのであった。
以前もこんなことがあったのに、学習しないなあ。もっともあれは北九州での話だが、まあ事情はそう変わらんと考えるべきだったのだろう。
しかしこんなんでは、それこそ仕事の関係で外食して帰るしか選択肢が無いような人たち、どうすれば良いのだろう?
とりあえず飲食店を規制して、いかにもやってる感だけ演出するの、ほんと勘弁してほしいもんだ。

そりゃ怒る人もいるよね

エリザベス・キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間』は有名な本だ。わたくしも読んだことがある。
と思っていたが、どうも勘違いだったようだ。
この本が、十数年前に読んだ立花隆の『臨死体験』で引用されており、なかなか興味深い内容だったので、これもいずれ読んでみなければ、と思っていたのが、いつの間にか読んだつもりになっていたようだ。

この『死ぬ瞬間』には、死期が近くなった人々が、その事実を受け入れるまでに辿る5段階のプロセスについて説明されている。
自分の死が近づいている、という事実を認めようとしない第1段階「否認」、
なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのかと憤り周囲に怒りをぶつける第2段階「怒り」、
神にすがったり、何かしら行いを改めることによって死を回避しようとする第3段階「取引」、
しかしそれらは悪あがきに過ぎず、間近に迫った死は避けられるものではないと理解して絶望する第4段階「抑鬱」、
そして、最終的にすべてを悟り、死を受け入れる第5段階の「受容」。
有名な話だ。
ところで、資本主義はすでに死んでいる、あるいは余命幾ばくもない、という状態であるらしい。
たとえば最近の『人新世の資本論』などで、その辺りの事情が語られている。資本主義はもう限界に来ている、と。

ほなどないせえっちゅうねん、という問いに対する答えは、この本にも少しあるが、さらにいろいろ突っ込んで考えてみたのが、『新世紀のコミュニズムへ』だ。

「資本主義の死」に対する態度は人によって様々であるが、概ね前記の5段階のうち第1〜第3段階のいずれかに位置するらしい。
SDGsとかあの辺は、そういうことですね。そういえばCO2の排出量「取引」とかいうのもあったな。

資本主義はロクでもないシステムだが、我々が入手し得るもののなかで最もマシである、とずっと言われ続けてきた。しかしもう先がない。ではそのオルタナティブは何か?
その問いに対する「コミュニズム」という答えは、各方面から拒否反応があるはずだ。
しかしここで言う「コミュニズム」は、我々が知っているもの、頭に思い描くものとは異なる。21世紀のコミュニズムは、大幅にアップデートされ、死に瀕した資本主義を代替し得るものとなっているのか。
そのあたりいろいろ解説されている。残念ながらすべてを理解することは、わたくしのアタマの許容量を超えたところにある。が、どうやら可能性はありそうだなとも感じる。
いずれにせよ我々は、まず第5段階に移行し、「資本主義の死」という事実を受容しなければならない。話はそこからだ、ということのようだ。

ヘビ使いになってみないか

朝食後にダラダラして、昼前ぐらいにやっと走りに出た(いつものパターンだ)と思ったら、雨降ってやがんの。
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まあカンカン照りで暑いよりはだいぶマシだけども。
一昨日も降ってたし、やっぱりトレイルは無理かな、てことで、ロードで15km。
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ふと思い立って、MacにIPython(というかJupyterだな)を入れてみることにした。最近のmacOSには標準でPythonが入っているが、だいたい2.x系列で古い。Jupyterには3.xが必要、らしい。
仕方がないので、Homebrewを入れて、それからpyenvを取ってきて、やっとPythonを最新版にバージョンアップ。したのは良いがPythonを起動しても有効なのは古いバージョンのまま。何でやねん、といろいろ試してみたところ、どうやら.bash_profileの書き換え方が微妙に正しくなかった模様。
ちゃんと新しいバージョンが起動できるようになったところで、さてJupyterを入れるには… Anaconda を入れれば良いのか。いやしかしダウンロードできるAnacondaのインストーラーに書いてあるPythonのバージョンはさっき入れたやつと違うぞ。これ合わしとかなあかんのとちがうんか(ここですでに誤解している)、ということでインストールしたばかりの最新版Pythonをアンインストールし、Anacondaのインストーラーに書かれていたバージョンのPythonを入れ直した。
ここで気付いた。Anacondaを入れたら一緒にPythonも入るんやんけ…(インストーラーに書かれていたのはパッケージされていて一緒にインストールされるPythonのバージョンだ)
そんなの最初にちゃんと調べとけや、てなもんだがとにかく、入れたばかりのPythonをまたアンインストールし、Anacondaの最新版を無事にインストールできた。
Jupyterなかなか良くできとるな。Pythonを触ったのなんて数年前で、きれいさっぱり忘れている。必死でリファレンスをググりながら、matplotlibでグラフを描かせる簡単なプログラムを書いてみた。うむ、たまにはこうやってコードを書いてボケ防止をしないとな。